2024.11.22

セレッソ大阪 ブエノ選手夫妻から紐解く「ヤンマー」「ブラジル」「サッカー」の物語

「ヤンマー」と「ブラジル」、そして「サッカー」。3者には深いつながりがある。Jリーグに所属するサッカークラブ「セレッソ大阪」(以下、セレッソ)の前⾝「ヤンマーディーゼルサッカー部」では、のちに帰化して⽇本サッカー殿堂⼊りも果たしたネルソン吉村(吉村⼤志郎)さんをはじめ、ブラジルから加⼊した選⼿が多く活躍。その流れをくみ、2024年にクラブ設⽴30周年を迎えたセレッソには現在、レオ・セアラ、カピシャーバ、ルーカス・フェルナンデス、ヴィトール・ブエノと合計4⼈のブラジル⼈プレーヤーが中心選手として在籍。ヤンマーは現在も、セレッソをトップパートナーとして支え続けている。

ヤンマーがブラジルにエンジンの輸出を始めたのが1950年。サンパウロに初の海外現地法⼈「ヤンマーディーゼル・ド・ブラジル(YanmarDiesel Do Brasil)」を設⽴し、ブラジルでの販売活動が始まったのが1957年。ブラジル⼯場の開所が1960年。ブラジル出⾝選⼿のパイオニアであるネルソン吉村選⼿の来⽇が1967年……。半世紀以上も続く絆(きずな)から⽣まれた不思議な「縁」を紹介する。

父から娘、そしてその夫へ。長浜の地で交差する歴史と運命

この物語の主⼈公は、セレッソで背番号55をつけてプレーするヴィトール・ブエノ選⼿の妻、マユミさん。名前からも推察される通り、⽇系ブラジル⼈の4世だ。

マユミさん(左)とブエノ選手

日本からブラジルへの正式な集団移住が始まったのは、いまから100年以上も昔の1908年(明治41年)にさかのぼる。最初に使われた船は、日露戦争の戦利品としてロシアから日本に引き渡された「笠戸丸」。「皇国殖民合資会社」の募集に応じた希望者781人を乗せた「笠戸丸」は、同年4月28日に神戸を出港し、2ヶ月弱の航海を経て、6月18日にサンパウロ近郊のサントス港に到着した。

当初、コーヒー農園などで働く労働者として海を渡った日本からの移民たち。過酷な環境に耐えて互いに助け合い、次第に自身の農地を持つなどして独立。日本人学校なども整備されるようになり、ブラジル社会にしっかりと根を下ろしていった。当時は移民を奨励する日本政府の政策もあり、ブラジルに渡る日本人は後を絶たなかったという。

じつは、マユミさんは幼少期に両親に連れられて来⽇し、滋賀・⻑浜で過ごした思い出がある。そのことを懐かしそうに、こう振り返る。

マユミさん:3歳から8歳にかけて⽇本にいました。両親が⻑浜で仕事をしていました。午前中に⽇本の学校に⾏って、午後はポルトガル語を忘れないようにブラジルの学校に通っていました。当時は両⽅の⾔葉をしゃべることができたのですが、いまはさすがに時間が経ったので、日本語を忘れてしまいました。

幼少期のマユミさん(右)と両親

⻑浜はヤンマーの創業者・⼭岡孫吉の⽣誕地。1942年に⼯場が開設されて以来、主要な⽣産拠点として、会社の発展を⽀えてきた。2013年には創業100周年事業の⼀環として、ヤンマーミュージアムもオープン。「ヤンマーの故郷」とでもいうべき、ゆかりの地である。

マユミさんの⽗親は長浜の地で多くのブラジル⼈の同僚らとともにヤンマーの関連会社に勤務していた。彼が従事していたのは、トラクターに使われる部品の塗装だった。

ブエノ選手がブラジルのサッカークラブで活躍していた時代に、彼と結婚したマユミさん。その後、セレッソへの加⼊が決まって単身日本に渡航した夫のブエノ選⼿から、電話で「セレッソのメインスポンサーは⻑浜に事務所があるんだよ」と聞かされたという。

マユミさんは「それは偶然だね。私も⻑浜で育ったから」とブエノ選⼿と話し合っていたのだという。そして、メインスポンサーの名前がヤンマーであることが判明。運命的な輪がつながった。

ブエノ選手が55番をつける理由

1970年代に入ると、日本からブラジルへの移民は移民船による集団移民が終わったことを受けて一気に下火となった。一方で、1980年代にブラジル経済が深刻なインフレや不況に陥ったことを受け、今度はブラジルから日本へ渡る流れに。日系移民1世や2世が就労目的で日本を訪れるようになった。

この傾向は1990年の「出入国管理及び難民認定法(入管法)」改正により、「定住者」の在留資格が設けられ、日系3世とその配偶者までが日本で就労できるようになると、一気に拡大。働き場所を求めて日本に渡る日系ブラジル人が急増した。マユミさんの両親が仲間とともに来日したのも、この時期に合致する。

マユミさん:セレッソのスポンサー企業がヤンマーだという話を聞いたときに「もう、これは神様の成し遂げてくださったことなのではないかな」と思いました。神様と⽗の存在があって、今回の私たちの来⽇が決まったんじゃないかと、すごく運命的なものを感じました。

ブエノ選⼿:間違いなく⾃分にとって来るべきところに来たんだという感覚です。いろんな偶然が重なったともいえますが、⾃分にとっては偶然ではありません。運命的なものでもあると思います。⼈⽣のなかで⼀つのプレゼントをもらったような感覚。ここに来たことに意味があると思います。

当時の⻑浜には、前述のとおり日系ブラジル⼈も多く居住していた。

マユミさん:⼈材派遣会社がブラジルにあり、そこを通して、⽗の友人たちも含めて、ある程度まとまった⼈数で⽇本に来たのは間違いありません。

今回の取材をきっかけにヤンマー社内では当時の記録を調査。マユミさんの⽗親と同じ部署で働いていた人が現在も約40⼈在籍していることがわかった。⼀⼈ひとりと連絡を取り、名前を覚えている⼈も1⼈⾒つかった。ポルトガル語をしゃべることができなかったので、マユミさんの⽗親と会話を交わしたことはなかったが、まじめに働いている姿はよく覚えているという。

マユミさん:それを聞いてうれしいです。⽇本語はそれほど上⼿くなかったので、⽗と会話するのは難しかったかもしれないですね。

マユミさんが通学に利⽤していたスクールバスの運転⼿や、⺟親と仲の良かった友⼈はいまも⽇本に在住。今回の娘夫婦の渡⽇を受け、ブラジルの家にしまっていたアルバムを⾒返した⺟親からは、当時の写真を⾒つけたと連絡があった。マユミさんは⾃⾝のスマートフォンに送られてきた写真を披露しながら、こう話した。

マユミさん:これは会社で開かれた懇親会ではないかと思います。⽗も写っています。ここに写っている人たちとは、お互い気持ちと気持ちがつながっている、愛情に近いような思いがあります。

例えば(スクールバスの)運転⼿のマルセロさんもそうです。すごく親しい⽅だったので、彼がその後どんな⼈⽣を歩み、いまどんな⽣活しているのかというのをお会いできたときに聞いてみたいと思います。そのぐらい親近感があります。

マユミさんとブエノ選⼿が結婚したのは2021年2⽉。その後にマユミさんの⽗親は急逝した。

ブエノ選⼿:結婚式のときに、お⽗さんから「娘をよろしく」と⾔われたことは、昨⽇のことのように思い出します。私のこともすごく応援してくれました。

マユミさん:亡くなり⽅が急だったので、⽗のことを話すのはまだつらく感じます。私にとって本当に⼤切な⼈でしたから。亡くなったときはショックが⼤きく、なかなか⽴ち直れませんでした。

⽗は楽観的で明るい⼈でした。だけど、やるべきことはしっかりとする真⾯⽬な性格でもありました。友達も多くて、誰からも親しまれ、慕われる⼈だったと思います。私にも⽗の⾎が流れているので、ときどき似ているところがあるのかなと思うことがあります。

マユミさんの⽗親は55歳の若さで他界。ブエノ選⼿は妻の⽗親への敬意を込め、背番号55をつけてプレーしている。

夫妻が紡ぐ「ヤンマー」「ブラジル」「サッカー」の物語

ブラジルに渡った移住者は戦前が約18万9千人、戦後は約6万8千人とされる。子孫も含めた日系人の人数は推計約270万人。サンパウロ市中心部には世界最大規模の日本人街「リベルダージ」が形成されて移民の共同体ができ、多くの日系ブラジル人が暮らしている。ちなみに、ブラジルに移民した日本人の出身県は沖縄県がもっとも多く、次いで鹿児島県、熊本県、福島県が続く。

日系ブラジル人や家族が働き場所を求めて「祖国」を訪れるトレンドは2008年のリーマンショックごろまで続いたとされる。現在は一時ほど盛んではないものの、日本に在住するブラジル国籍の人の数は約19万8千人。日本各地に日系ブラジル人コミュニティーも生まれている。

ヤンマー、⽇本とのつながりをかみしめている2⼈は⽇本での⽣活をどう思っているのか。率直に尋ねると、こう答えがあった。

マユミさん:私の想像していた以上に素晴らしい⽂化があり、リスペクトに値する国だと思いました。この国に暮らせることが名誉だと思えるぐらいです。いろんな⼈たちに温かく迎えていただきました。

住んでいるマンションの窓からは、⼩学⽣が登校する姿が⾒えるそうで、「⼦どもたちがみんな同じ制服を着て、⾝だしなみを整えて集団登校する。上級⽣が前を歩き、下級⽣がついていく。私も、こうやって学校に⾏っていたなというのを思い出しました。規律を守ったり、ルールを守ったりするところは、素晴らしい⽂化だと思います」と話す。

⼀⽅、初来⽇のブエノ選⼿は⽇本の⾷事が気に⼊ったそうで、寿司が⼤好き。マユミさんは⼤阪のソウルフードの⼀つ、たこ焼きにハマっているのだという。

最後に、2⼈はこんな話をした。

マユミさん:もう不思議というか……。⾯⽩い話なんですけど、じつはずっと前から、夫と「いつか私は⽇本に⾏くと思う」という話をしていたんです。実際にオファーがあり、話がまとまったときに、思っていたことが本当になったんだな、私の⼼の中にあった⽇本⾏きが現実になったんだなと思いました。

ブエノ選⼿:妻が⽇系⼈の家庭であることから、⽇本に関してはすごくいろいろなことを聞いていました。すべていい話ばかりで、⾃分も⽇本はどんな国なんだろうという好奇⼼がすごくありました。⽇本に⾏けるとしたら、それは夢の実現だという感覚がありました。実際にセレッソから獲得の打診が来たとき、「理想的な国からオファーが来た」と思ったことをすごく覚えています。

マユミさんはブラジルに住んでいる⺟と妹が来⽇するのに合わせ、かつて⽗親が働き、⾃⾝も幼少期を過ごした⻑浜を訪れたい意向を持っている。ブエノ選⼿はリーグ優勝を⽬指すセレッソでの活躍とともに「⾃分にとっても、⽇本に来るのは⼀つの夢でした。それ以上に、私の妻の夢でした。⽇本に住む願いが叶った妻の姿を⾒ていると、⽣活を満喫しているように思います。彼⼥が⽇本の⽂化を知るためにできることがあるのであれば、それをどんどん⽀えていきたいと思っています」とサポートを誓った。

「ヤンマー」と「ブラジル」、そして「サッカー」の物語は、まだまだ続く。

ヤンマーディーゼルサッカー部

2003年に56 歳で亡くなったネルソン吉村さんの妻、多恵⼦さんはブエノ夫妻の話に触れ、以下のように話してくれた。

多恵⼦さん:ブエノ選⼿と奥さんの話を聞き、懐かしく思うとともに、ヤンマー、セレッソとブラジルの結びつきの強さを思いました。夫は19歳で⽇本に来て、最初は⾔葉もわからずにホームシックになったと聞きました。つらかったと思いますが、⽇本であいうえおから教えてもらい、⽇本語もしゃべることができるようになりました。

これまで多くのブラジル⼈選⼿がヤンマーディーゼルサッカー部、セレッソ⼤阪でプレーしてきましたが、最初のころは頼られることも多かったですね。選⼿の奥さんの出産を⼿伝ったこともあります。⼦どもを預かったこともありました。そうした歴史がいまにつながっているのだと思います。また、セレッソの応援に⾏きたいと思います。

現在セレッソに所属するブラジル人選手たち。左からカピシャーバ、ブエノ、ルーカス・フェルナンデス、レオ・セアラ

※取材者の所属会社・部門・肩書等は取材当時のものです