2025.02.27
作家・作詞家 高橋久美子の「やり切ったと思えるまでやる」生き方。音楽や農業、多岐にわたる挑戦の原動力は?

ヤンマーは「A SUSTAINABLE FUTURE -テクノロジーで、新しい豊かさへ。- 」の実現に向け、事業活動を軸に社会貢献などさまざまな取り組みを⾏っています。その基盤となるのが「HANASAKA(ハナサカ)」。これは、「⼈の可能性を信じ、挑戦を後押しする」という、創業時より受け継がれてきたヤンマーの価値観を指します。
Y mediaでは、何かに挑戦している⼈、誰かの挑戦を後押ししている人を「HANASAKAビト」と呼び、その取り組みをご紹介していきます。
今回取り上げるのは、この「HANASAKA」を体現するように、さまざまな挑戦を続けてきた作家・作詞家の高橋久美子さん。
高橋さんは、人気バンド「チャットモンチー」の元メンバー。2011年、人気絶頂のなかバンドを脱退、作家活動に転向します。2021年ごろから地元愛媛と東京の2拠点生活を開始し、農業にも積極的に取り組んでいらっしゃいます。
これまでの人生で何度も挑戦し、多岐にわたる活動すべてに全力で取り組んでこられた高橋さん。その背景にはどんな価値観や考え方があったのか。どのようにして自分の生き方を確立していったのかインタビューしました。

高橋久美子(たかはし くみこ)
1982年愛媛県生まれ。作家・作詞家。バンド「チャットモンチー」の元ドラマー。2021年から東京・愛媛の2拠点生活を開始し、愛媛では農業、東京では作家をする。近著に『わたしの農継ぎ』、『その農地、私が買います』(ともにミシマ社)『いい音がする文章 あなたの感性が爆発する書き方』(ダイヤモンド社)など。歌詞提供も多数。ECサイト「チガヤ農作物店」では、自身の畑で収穫した農作物をはじめ、ZINEやCDなどのオリジナルグッズも販売している。
チガヤ農作物店:https://chigaya2022.stores.jp/
「仕事と思わず、『やりたい』を見つける」高橋さんの生き様とこれまでの歩みとは
―高橋さんはもともとミュージシャンとして活動され、作家・作詞家になり、現在では農業にも携わっていらっしゃいます。1つのことだけではなく、つねに複数の物事に取り組んでおられる印象を受けるのですが、ご自身ではどのように自覚されていますか?
高橋:意識的に複数のことに取り組んでいるのではなくて、たまたまそうなっているのかなと思います。どの活動も自分の中では繋がっているんですよ。例えば、音楽活動をしていたときに作詞をしていたことがきっかけで、バンド脱退後に文筆の依頼が増え自然と作家になりました。

高橋:そのとき自分が直感で「やってみたい」「楽しそう」と思ったことに取り組んでいて、どの活動も好きの延長にあるから夢中になれました。なので、いわゆる「仕事」という感覚ではないのかも。「今の私が進んでいきたい方向」を信じてチャレンジして、突き詰めてきましたね。
──そんな高橋さんの生き方が、どのように形づくられたのかが気になります。幼少期はどんなことをして過ごしていらっしゃいましたか?
高橋:実家が兼業農家だったので、子どものころから祖父と一緒に農作業をするのが好きでした。みかんの収穫や、田植えのお手伝いをしたり。遊びの中に田畑がありました。親からも「自分が食べるのだから、子どもも一緒にお手伝いするんだよ」と言われていました。
子どものころは、学校の先生になるのが夢でした。よく近所の子どもたちを集めて、勝手に塾みたいなものを開いていたんですよ。下級生にに文字を教えてあげたりして。
そうすると、近所の方が「孫がくみちゃんのところで勉強してくるから嬉しい。先生になったらええわ」と言ってくれたりして。それで本当に「先生になろうかな」と思うようになりました。単純ですよねえ(笑)。
──進学などライフステージが変わっていく中でも、教師への夢は変わらなかったのでしょうか?
高橋:そうですね。徳島にある鳴門教育大学に進み本格的に教師を目指しました。小学校の教員免許と、専門が国語科だったんで、中高の国語、あと音楽の先生の免許、幼稚園の先生、図書館司書と、かなりいっぱい免許を取りましたね。他の学科の子に混ざって余分に授業を受けたり、バイトも飲食店や家庭教師を複数掛け持ちし、さらにバンドもやってたから、本当に忙しかったですね。
──音楽との関わりが生まれたのは、いつごろでしたか?
高橋:最初は、3歳から習っていたピアノですね。小3で新しい先生に変わったんですが、私が中学生になったころからその先生が、ピアノのレッスンだけじゃなく、ボン・ジョヴィとかU2のCDを貸してくれたり、ギターを教えてくれたりしはじめて。いきなりエレキギター弾くようなロックな先生で、こんな音楽もあるんかー、と驚いて。

高橋:中学生になってからは吹奏楽部に入部して、とにかく部活漬けの毎日。クラリネットをしていたんですけど、楽器は小さいのに結構肺活量がいるんですよね。で、中2で肺を悪くしてしまって。それでも続けていたんですが、ついに高1でドクターストップがかかってしまって。本当にショックでした。今思えば初めての挫折経験かもしれません。
部活を辞めようか病床で3日くらい悩んだのですが、音楽を辞めてしまったら学校に行く気力もなくなってしまうと思って、打楽器に転向しました。最初はつらかったですけど、今度はだんだん打楽器が面白くなっていくんです。で、大学ではオーケストラ部と軽音部に兼部し、軽音部ではドラムを叩くようになったんです。そこで後輩だったチャットモンチーに出会います。
3人で自主制作のCDをつくり、それを持って関西のライブハウスにも自分たちで運転して行脚するようになりました。そうして、お客さんも少しずつ増えて、同時に、そのCDをレコード会社40社とかに送りまくって、オーディションも受けまくって、そうしてデビューも決まって。語り尽くせないくらいの冒険の日々でした。自分の土台を築いた、人生の中でかなり大きな数年間でした。デビューしてからも、創作やライブに忙しいけど本当に充実した日々でした。
作家になった今も創作の日々ですけど、音楽も農業も執筆も、根本の部分は同じかもしれません。大事なのは今、自分が夢中になれるかどうかということだと思います。そうすると努力も努力と思わず、がんばることができます。
音楽活動後に気づいた地元の尊さ。高橋さんが語る農業の喜びとは
──幼少期から農業には関わっていたとのことですが、10代や20代のころまでは将来的に農業に関わろうという気持ちはありましたか?
高橋:大学時代やバンド時代にも、収穫時期やツアーの合間などに時間があれば手伝いに帰っていました。
でも、あくまで手伝いであって、自分が主体的に農業をするということはイメージしていなかったです。
──本格的に農業に携わろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
高橋:地元に帰るたびに、どんどん人口が減って、どんどん空き家が増えて、田畑が黒い太陽光パネルで埋め尽くされて……と変化していくの目の当たりにして、切ない気持ちになりました。私が子どものころから好きだった田畑の風景は、この地域のみんなが守ってくれてたものだったんやなあ。今度は私がそれをする番なんやなと思うようになりました。もちろん私は専業農家にはなれません。でも、専業でない人だって畑に関わることはできます。できる範囲で、この風景を守りたいと、1カ月交代で愛媛と東京を行き来するようになりました。私がいない間は、友人や母に様子を見に行ってもらっています。

──実際に農業に携わってみて、とくに苦労している点はありますか?
高橋:夏の暑さも大変ですが、一番は獣害ですね。10年前くらいから、猿や猪が山から下りてくるようになり、今では実家のベランダに猿の群れがいたりするんですよ。育てた作物が全部猿に食べられるので、単管を立てて天井までネットで覆ったハウスをつくるところからスタートしました。
「山に食べ物がないから」という話もよくありますが、実際に山に行くとどんぐりがたくさんあったんですよね。人間のつくった野菜やミカンの美味しさを知ってしまった猿はもうどんぐりでは満足できないのかもしれません。
──一方で、農業の楽しさを感じるのはどんな場面ですか?
高橋:やっぱり、作物が美味しくできたときですね。例えば、里芋は私の地元の特産品なのですが、収穫して実家の庭で芋炊きをして、みんなで月を見ながら食べます。あと、冬はサトウキビを収穫して黒糖に製糖します。夏の苦労が吹き飛ぶくらいに嬉しいです。仲間と喜びを分かち合えるというのは豊かだなあと感じますね。

高橋:また、近所の方々と農作物の物々交換ができるようになったとき、一人前に近づけた気がして誇らしかったです。通りかかったときに、農業のコツを教えてくれる人もいて、年の離れた人と「畑仲間」になれることが嬉しい。畑をしていると自分の倍くらい長く生きている先輩たちと共通の話ができるんです。畑は社交場やなと感じています。
どんなことも、極めたら面白い。高橋さんの生き方に通る芯
──ここまでのお話を聞いて、幅広い事柄に自然体で、かつ深く取り組まれていると感じます。高橋さんが物事に取り組む際、意識していることや軸になっている考え方はありますか?
高橋:自分が面白いと思えるものに夢中になってきただけなんかもしれんね。小学校のころから、そろばん、ピアノ、水泳などいろいろな習い事に通っていたけど、自分が面白いと思えないことは続かなかった。逆に面白いと思えたものには夢中になった。しんどくても面白いが勝るから突き進むという性格は幼少期から変わっていないですね。

高橋:ほとんどのことは「極めたら面白い」ということやと思います。音楽も畑も、すべて。上手くいっていたから楽しいと思えたのではなく、失敗したり、周囲よりも出来なくて悩んだりしたときに、どうやったらもっと上手になるかなと考えますね。そうして試行錯誤を続けたからこそ、心から楽しいに到達できたんだと実感しています。
何かを突き詰めていく先で、他のことに興味がでてきたら、それもやってしまう性格で、ついに二拠点生活になってしもてますけどね。休符になることもあるけど、そのときは自分に正直にいるのがいいですね。「やりきった!」と思えるまで極められるのが一番いいですけど、そうでなくても、きっとまた次のことに挑戦できると思うんです。
自分が「やってみたい」という直感に正直に生き、それを「やりきった」と思えるまでとことん突き詰めるのが理想ですね。でも農作業のあとは眠くて眠くて、書こうと思った原稿もなかなか進まず(笑)。作家として東京という場所も必要だなと感じています。
──最後に、今後の目標を教えてください。
高橋:地元の自然(田畑や山)をなるべく、そのままの状態で残し次の世代にその魅力を伝えていくことです。最近は東京から愛媛へ移住したいという友達の家探しをサポートしたりお節介もしています。
あと、40歳を過ぎて、自分の人生が第2フェーズに入っている感覚があって、次の世代に種を蒔くことも大切にしたいと思いはじめています。私の農地には「チガヤ倶楽部」というチームの畑も一部あって。そこは、最初はお手伝いからはじまり、自分で野菜をつくれるようになるのが目標です。
最近は東京や別の地域からも手伝いに来てくれる人が増えてきました。それだけみんなが土を求めているということなんですね。続けていく人、辞めていく人いろいろですけど、その人たちがたとえ農業から離れたとしても幸せになっていってくれたらいいなと思うし、畑という場所で人と人、人と自然の交流があるのはとてもいいなと思っていて。
ある人は、転勤になってうちの畑からは離れてしまったんですけど、「こっちでも畑を見つけました!」って連絡をくれました。私が教えた農作業という「種」が、別の場所で「芽」を出している。一緒に畑をやった人たちが、それぞれの場所で、新たな活動を広げてくれたらそれが一番嬉しいことです。

取材・文:白鳥菜都
写真:佐藤翔