岡澤昂星の
レッドブル・ブラガンチーノで10番を背負う19歳、「来たからには絶対に
活躍しないといけない」
岡澤昂星の挑戦
サッカー王国ブラジルで10番を任され、
強い覚悟で挑む
ブラジル・プロサッカーリーグ(カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA)のレッドブル・ブラガンチーノU-20で奮闘する日本人選手がいる。岡澤昂星。セレッソ大阪のアカデミーから昨年トップチームに昇格し、8月から同クラブに期限付き移籍中のMFだ。
この移籍は、ブラジルと歴史的な関わりを持つヤンマーが2022-23年シーズンより同クラブのプレミアム・パートナーとなったことに端を発している。ヤンマーは1957年にグループ初の海外子会社であるブラジル現地法人をサンパウロに設立し、ブラジルの人々の暮らしや産業の発展に貢献してきた。サッカーでは、セレッソ大阪(以下=C大阪)の前身であるヤンマーディーゼルサッカー部時代からネルソン吉村などブラジル出身の選手が活躍し、ブラジルのクラブと積極的に交流を行なってきたという経緯がある。
岡澤昂星 ブラジル・レッドブル・ブラガンチーノ
2003年10月22日生まれ、19歳。大阪府大阪市出身。セレッソ大阪エリートクラス大阪西校→大和田SSC→セレッソ大阪西U-15→セレッソ大阪U-18→セレッソ大阪(2種登録)を経て22年トップチーム昇格。同年9月からブラジル・レッドブル・ブラガンチーノに期限付き移籍。J3通算30試合出場、カップ戦3試合1得点、天皇杯3試合出場。
岡澤は先日まで、ブラジルサッカー界の“金の卵”の登竜門とされる「コパ・サンパウロジュニアサッカー選手権U-20(コッピーニャ)」を戦っていた。本来は12月15日で期限付き移籍期間が終了する予定だったが、クラブ側から同大会出場の打診を受け、戦い抜くことを決めた。
「10番を任せていただいている。本当に強い覚悟を持って挑んでいます」
「セレッソ大阪、アカデミーの力」第9回は、レッドブル・ブラガンチーノのプレミアム・パートナーであるヤンマーの取材協力のもと、サッカー王国で揉まれ、成長を続ける岡澤昂星にフォーカスする。 (取材日:2023年1月9日)
世界に出たかったけれど、
世界はそんなに甘くない
「レッドブル・ブラガンチーノ」はサンパウロの北約90kmの位置にあるブラガンサ・パウリスタをホームタウンとするクラブだ。1928年に「CAブラガンチーノ」として設立され、2019年に「レッドブル・ブラジル」と合併し、新たに生まれ変わった。同年セリエBを優勝し、セリエAに昇格。21年の「コパ・スダメリカーナ」では準優勝という成績を収める進境著しいクラブでもある。
- 昨年の夏からレッドブル・ブラガンチーノへ期限付き移籍しました。この話を聞いた時の気持ちと、現地の第一印象を教えてください。
- 初の海外ということもあって本当にビックリしたのが一番大きかったです。ブラジル人選手は知っているけれど、実際のブラジルのリーグってどんなとこなんだろう? と。初めて施設に着いた時に感じたことは、自然が豊かですごく寮が広かった。敷地内にサッカーコートが3面あって、フットサルコートのようなバスケットもできる施設もあり、筋トレができる施設、メディカルチェックができる施設など、サッカーに集中できる環境が揃っているという印象を受けました。24時間サッカーに集中できる環境だったので、着いて1週間ぐらいから、「ここでプレーすれば、絶対自分は成長できる」という思いはありました。
- 環境も言葉も異なります。どう順応していきましたか?
- 一番難しかったのは言葉ですね。チームメイトも話しかけてくれるんですけど、何を言っているか分からない。そこで自分なりに単語を勉強したり、スタッフから教えていただいたりして、少しずつチームメイトの言っていることも分かるようになってきました。言葉が通じると嬉しいですし、相手の気持ちが分かればサッカーにもつながるので。
- 海外移籍はプレーもそうですが、人間的な成長も大きいですね。
- 日本にいた時より周りに話しかけるようになったというか、今は自分からどんどんチームメイトに話しかけるようになりました。ブラジルでは、日本での当たり前が当たり前ではないですし、違った環境で揉まれることによって、人間的な部分でも成長できたのかなと感じます。
- 現在はU-20チームでプレーしています。チームの印象は?
- 第一に思ったのは、足元の技術があるテクニカルな選手が多いということです。最近は日本でも三笘(薫)選手といったドリブラーも活躍されていますが、どちらかと言うとドリブルよりもパサーが多い印象がありました。でもブラジルは持ったらまず仕掛ける選手が多い。常にどのポジションからでもゴールを狙っています。体も大きいし、僕と同じぐらいの身長でも体幹が強く、当たり負けしません。
- 1対1では絶対に負けないという強い執念を感じます。こちらに来て一番驚いたことは、抜かれたら後ろから服を引っ張ってでも、足をかけてでも止めるということ。僕も最初、ドリブルで抜いた時に思いっきり掴まれて止められて「なんやこれ?」と思いました。でも、それがもう日常茶飯事で、練習を重ねる上でのベースになっています。ボールに対する執着心が日本とは全然違っていて、そこは衝撃を受けました。
- 今回の経験は、ご自身にどのような影響を与えていますか?
- 国内でプレーしている時から「世界でプレーしたい」とは言っていましたが、いざ世界に出てプレーしてみれば、「世界はそんなに甘くない」ということを感じました。一つのボールに対する執着心が、この半年間で大きく変わったと思います。
- 日本にいる時も球際に強い印象はありましたが、さらに執着心は増している?
- こちらに来た時は全然ダメでした。チームメイトからも「もっと戦え」「球際で負けるな」と何回も言われて。自分の中では全力でやっているんですけど、球際が強い選手ばかりで。どうしたら勝てるのかと考えた時に、食事の面や筋トレで他の選手と同じことをしていてはダメなので、「自分はここが足りないから、こういうことをしないといけない」ということばかり考えていました。球際でも同じタイミングでぶつかったら負けるので、タイミングをずらすなど、頭を使うプレーも増えました。
- 行った当初と比べると、プレー面での変化は感じますか?
- すごく感じますね。守備だけではなく、攻撃でもボールを持ったらまず前を向いて仕掛けるようになりました。ゴールに関わるプレーを増やすことをブラジルに来て最初の1カ月で意識したので、それからはゴールに対して強い意識でプレーしています。
日本人が10番だから
ダメだったと言わせたくない
岡澤はスクールからC大阪アカデミー育ち。U-18所属時に2種登録され、U-23チームで16歳にしてJ3デビューを果たしている。トップチームに昇格した昨年は3月のルヴァンカップ・大分トリニータ戦でトップチームデビューと1ゴール。強烈なインパクトを残したものの、リーグ戦出場はまだだった。そんな中訪れた期限付き移籍について「勇気のいる決断でしたが、後悔はしていないですし、本当に良かった」と断言する。
- 日本では味わえない濃い半年になったようですね。
- 移籍のお話をいただいて、冷静に考えた時に「ちょっと嫌だな」という思いもありました。ルヴァン杯や天皇杯で試合に出ていましたし、J1リーグでもメンバー入りさせてもらっていた状況だったので、残りたい気持ちもあったんです。ただ、このままの自分だと、奧埜(博亮)選手や原川(力)選手、鈴木(徳真)選手には勝てないとも感じていて、どこかで自分に変化を与えなければいけない思いもありました。
- ブラガンチーノに移籍する決断をして、今こうしてU-20ですけどブラジルでも注目される大会で結果を残せています。サッカー選手としても人間としても大きく成長できていると思うので、この移籍は僕のサッカー人生のターニングポイントになると思います。
- C大阪に戻った時に、ポジション争いに絡める自信も得られた?
- それまでは自分が試合に出ていたとしても、本当に僕でいいのかな…っていう不安もありました。でも、今はそういう不安はないですし、偉大な先輩たちに立ち向かっていける武器も身に付いたと思います。日本に帰ってからが楽しみというか、ワクワクしています。
- 離れている間もC大阪の結果は気にしていましたか?
- 小学生からお世話になっているクラブなので、自然とセレッソ愛は強くなりますし、離れてからもずっと毎試合毎試合チェックしていました。(北野)颯太が出た試合とか、「おつかれさま、どうやった?」って話を聞いたりしていたので。ルヴァン杯決勝で負けた時は自分もすごく悔しくて。来年は自分がピッチに立って優勝させたい思いも強くなりました。
- コッピーニャでは、すでに2試合を終えて得点、アシストも記録。この大会で活躍したことは自信になりましたか?※
- 強い覚悟を持って挑んでいますし、自信も得ました。ただ、通過点だとも考えています。チームに残ったからにはチームを優勝させるのが自分の役割だと。10番を任せていただいているのですが、「日本人が10番だからダメだった」とは言わせたくないですし、僕が10番だったから優勝できたとブラジルの人たちに言わせたい。そこは本当に強い覚悟を持ってこの大会に挑んでいます。
- ※ インタビュー後、チームはラウンド16に進出、ベスト8を懸けて健闘するも敗退。
- 10番をもらったことで、より覚悟が増した?
- はい。ブラジルに来る前は、背番号にこだわりはなかったのですが、ブラジルに来てから、10番はそのチームの顔だということを強く感じています。先日、ブラジルで10番を背負って活躍されたペレさんが亡くなりましたが、「ペレの前は10番は単なる数字だった」ってネイマール選手も言っていました。どのチームが見ても最初に目にする選手は10番だと思います。やっぱり10番を任されたからにはしっかり恥じないようなプレーをしたいと思っています。
- 半年間で認められた証ですね。
- 2カ月ぐらい前は、ベンチの生活が続いていたんですけど、「このままではダメだ」と、どうしたら出ている選手に勝てるかを考えました。ブラジルに来たからには絶対に活躍して帰らないといけないと思っていたので、その思いはブレさせずに、ここに来た目的や理由を明確に持ちながらやり続けてこられたことが、スタメンや10番という重い番号を背負わせていただいている要因なのかなと思います。
- 中学、高校を含め、その都度、這い上がる意識は変わっていないということですね。
- はい。自分は常に下から始まる選手で、スター性もないですし、注目度も低く、下からどんどん這い上がって行く人生です。僕はそういう人生のほうが合うというか、成長できると思うので。これからも、もっと上のステージを目指して頑張っていきたいです。
ブラジルでの様々な経験で
さらに欧州挑戦への意欲が増した
2022年は岡澤にとって大きな変化のあった1年に違いない。ブラジルへの期限付き移籍、そしてカタール・ワールドカップ。初めて日本を出て世界に直面し、W杯で戦う同世代の選手たちを目の当たりにした。「自分の中で、本当に遅過ぎるという思いがある」。欧州挑戦への意欲がさらに明確になった。
- 今回ブラジルでの経験で、新たな目標は見えましたか?
- 一番、強く感じたことは海外挑戦です。ブラジルでもいい選手はどんどん欧州に行っています。18歳でももうW杯に出て点を決めている選手もいます。自分もできるだけ早く海外に挑戦したいです。目指す選手は、モドリッチ選手です。自分の中での目標なんですけど、そういう選手に近づくためには、いち早く世界に出てより高いレベルでプレーしなければならないと思いました。そのためには、帰ってからセレッソで結果を残さないと注目されません。帰ってからも必死でプレーし続けて、常に海外挑戦という目標を明確にしながら生活を送っていきたいと思います。
- C大阪アカデミー出身者として、後輩たちにどういった姿を見せたいですか?
- トップチームで活躍することが、アカデミーの選手たちにとっても、大きな存在になると思います。僕もアカデミー時代、柿谷(曜一朗)選手や南野(拓実)選手が活躍している姿を見て『こんなふうになりたい』と思っていました。今は自分がそのような存在にならないといけない。周りが思っている以上に、その思いを背負っていますし、アカデミー出身者として恥じないプロサッカー選手になりたいと思っています。ブラジルでプレーしている今も、しっかりと結果を出して世界でも戦えるという夢や勇気、希望を与えたいです。
- プロサッカー選手を目指している子どもたちにアドバイスを送るとしたら、どういう言葉を送りますか?
- みんなサッカーをやっているからには将来の夢はプロサッカー選手だと思います。それを目指していく中で、落ち込む時期、うまくいかない時期もあると思います。自分が本当に将来何になりたいのか、考えをしっかり持っておけばブレない。どんな状況でも、プロサッカー選手という夢に向かって突き進んでいけば、必ず夢は叶えられると思うので、頑張ってほしいです。
- 岡澤選手にとって、プレーする上での原動力は何ですか?
- 家族ですね。ブラジルに来てから家族とは半年会っていないんですけど、毎日連絡してくれています。自分一人でここまで来られたわけではないですし、僕がもっと活躍して、より高いレベルに行けば、もっと家族を養えます。そういう部分で自分の原動力は家族だということを、この半年間で強く思いました。
- 最後に、これからの将来像をお聞かせください。
- カタールW杯では、日本の戦いを見てすごく勇気と感動をもらいました。けれど、その中で嫉妬心もありました。僕も次のW杯には絶対に出たいと思っていますし、その中で自分が活躍して世界中に自分の名を知らしめたい。子どもたちやプロサッカー選手を目指している選手たちに、大きな希望、夢、感動を与えられるような選手になりたいと思っています。
セレッソ大阪、アカデミーの力
未来への
「世界に通用する選手の育成」を掲げたセレッソ大阪アカデミー。
セレッソ大阪から世界へ。
「未来に美しい花をたくさん咲かせたい」、
そんな未来への原動力に迫る。